東邦・製品の歴史

東邦・製品の歴史

■第二章 相模への移転そして激動時代

1.相模工場設立(昭和37年~38年)

昭和37年3月、小田急相模原駅からほど近い地域に工場建設をスタート。 板金工場、組立工場、4階建て本館の建設を順次行い、昭和38年7月11日に『東邦電機工業株式会社 相模工場』として落成式を迎えた。

2.車両機器への参入(昭和38年)

翌年に迫った東海道新幹線の開業に合わせ、地上設備の保守のため、信号機器の動作と新幹線の運行状況を同時に確認・判断できる記録器の開発が進められる。 新幹線走行中の信号情報、スピード情報、地点情報などを記録する「ATC車上受信装置記録部(記録器)」を開発。これらの記録器は運転席の後部に収納され、これを機に東邦電機工業では地上設備だけでなく車載機器の生産も行うこととなる。

3.集団就職(昭和38年)

集団就職による、いわゆる“金の卵”たちの入社が活発となる。 そのため相模工場がある小田急相模原駅近くに社員寮が設けられた。

4.踏切制御子の大量生産(昭和40年)

相模工場の完成により踏切制御子の量産体制がとられ、工場内は活気に溢れた様相を見せる。 目黒では80名ほどだった従業員も昭和39年には約190名、昭和40年には約230名となり、従業員のための送迎用バスの運行も行われた。 また、生産性を上げるためのベルトコンベアも導入され、分担作業で月産1,000台を生産。この年、ついに売上は10億円を達成。

5.相模工場本館増築(昭和41年)

昭和39年には2,400万円であった資本金を、昭和41年5月には3,840万円、さらに昭和41年9月には4,000万円に増資。 また、手狭となった相模工場の増築が行われ、昭和41年9月に本館の増築が完了した。

6.大阪事業所開業(昭和44年)

昭和38年4月に開設された大阪出張所が、製品の修理と検査を手掛けるため、昭和44年に新しい場所に社屋を建設して「大阪事業所」として業務を開始。 以降、大阪事業所では、西日本全域の製品点検や修理を一手に引き受けることとなる。

7.御殿場研修寮(昭和48年)

社員の福利厚生を兼ねた施設として御殿場に研修寮が建設される。 社内会議やクラブ活動の合宿などでも活用されたが、社員の保養施設としても好評を博した。

8.不景気による操業短縮(昭和50年)

オイルショックによる景気低下の影響を受け、 残業を行わない定時での終業や週末の操業短縮などの調整が行われた。

9.中華人民共和国との技術交流(昭和50年~60年)

日中平和友好条約の締結から2年半後の昭和50年1月、中国との技術交流会が3週間の日程で開催。 中国からの要望により、踏切関係の踏切制御子や踏切警報音発生器、断続リレーの技術指導のため当社の社員が訪中し、北京賓館の会議室でさまざまな技術交流を行った。 中国との技術交流はその後も続き、昭和60年までに合計8回にも及んだ。

10.3代目社長就任(昭和51年)

22年間社長を務めた村田安太郎が会長となり、専務取締役であった日吉柳男が3代目社長として就任。 社長就任後、3年間途絶えていた慰安旅行の復活やクラブ活動の助成金交付、独身寮の新設など、社員の福利厚生の向上に尽力する。

11.社内報「愛」の創刊(昭和51年)

社員同士が互いを知り、相互に協力し合えることを目的に、昭和51年9月28日に社内報の創刊号が発刊される。 会社からのお知らせ、営業所紹介、趣味、健康などの内容に加え、社員同士の心のつながりを重視したコーナーも用意されていた。

12.特機本部の新設(昭和51年)

鉄道関連以外の特殊機器の生産を主体とする組織を設立。 予てより日本道路公団で採用されていた、トンネル内で事故が起きた際に緊急ボタンを押すことで警告を告知し、事故の拡大を未然に防ぐ「トンネル内非常警報装置」やトンネル内でラジオ放送を中断なく聴取できる「ラジオ再放送装置」をはじめ、警察関係では、パトカー無線の電波の届く範囲を自動的に連続集計することができる「磁気記録式電界強度連続集計装置」など、さまざまな機器を担当した。

13.OA導入と5か年計画(昭和54年)

これまで電卓やソロバンを利用していた事務作業の自動化・効率化を図るためにコンピュータを導入。 いわゆる“OA機器”の活用が積極的に行われた。 また、昭和53年からは長期的な展望を見据えた「5か年計画」を実施。設定された基本方針を常に意識しながら、さまざまな計画を推進していくこととなる。

14.新独身寮完成(昭和56年)

昭和56年9月、相模工場のある小田急相模原駅近くに鉄筋コンクリート3階建ての新独身寮が完成。 それまで2カ所に別れていた木造建築の寮から、6畳個室、冷暖房・浴室完備、食事付きと独身者の環境は大いに改善された。

15.4代目社長就任(昭和58年)

社内に新風を吹き込むことを目的に、7年間社長を務めた日吉柳男が勇退。 東邦電機工業の創立間近より関わりのあった近藤禎男が4代目社長として就任した。 日吉前社長の敷いた方針を踏襲しながら、情報の重要性の認識、工場の合理化の推進、クレーム根絶への努力など、さまざまな新機軸を目標に掲げた。

16.目黒本社社屋建て替え(昭和60年)

戦後まもなく立てられた目黒本社社屋の建て替えが行われる。 当時の状況を忘れないため、戦後の資材不足で窓ガラスが手に入らず写真用乾版の廃材を利用した窓が永久保存されることとなった。

17.国鉄からJRへ(昭和62年)

昭和62年4月1日、国鉄はJR7社と国鉄清算事業団に分割民営化。 日本の鉄道は新しい時代へと進むこととなる。

18.CAD導入(昭和62年)

それまで製図台と手引きで行われていた設計作業にコンピュータを利用したCADが導入される。 また、昭和62年には小型化したパーソナルコンピュータの普及により、個人で扱えるCADの導入が進められた。

19.特殊生産部の活躍(昭和63年)

特殊生産部は、小ロット製品の受注や緊急品の設計から製作までを対応するフットワークの軽さが特徴として設立された。 本来、数の少ない製品の設計製作をする部署であったが、踏切用メモリやガソリンスタンドの価格を表示する「プライスサイン」などの大量に出荷される製品の開発も手掛けている。 特にガソリンスタンドに設置された「プライスサイン」は、鉄道用品以外の民生品として初めて大量生産となった。

20.悲しみの社葬(昭和63年)

昭和63年3月1日、会長を務めた村田安太郎が永眠。 また、昭和63年10月19日には、近藤禎男社長が永眠。


>>「第三章 会社の変革 さらなる飛躍時代」に続く